私がPT経験6年目の頃(2004年)のことです。
通勤中のバイク事故で脊髄損傷を負ってしまったSさん(男性・当時33才)のリハビリテーションを担当することとなりました。
受傷直後の脊髄損傷の患者さんを担当するのは、私にとっても初めてのことでした。
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1.下半身麻痺の重傷を負って
Sさんは雨の降る中、バイクで勤務先から帰宅する途中に自動車と衝突し、第10胸髄レベルの脊髄損傷という大怪我を負ってしまいました。
大まかに言うと、彼の場合、おへそのラインから下の知覚と運動機能が完全に失われた状態でした。
高学歴でなかった彼は、10代後半から20代にかけて相当苦労したようです。
解体業の従業員として働きながら経営のノウハウを学び、やがて自分自身で解体事業を立ち上げました。
33才の青年起業家というわけです。
童顔ですが、筋肉質でガッチリした体型。
極真空手の有段者であり、スノーボードのインストラクターでもありました。
本人にとっては思いがけない大事故で、心の中はさぞ乱れていたことでしょう。
それでも、私が介入した当初からSさんはリハビリに意欲的でした。
下半身が麻痺しているため、両腕で全体重を支えながら床上を移動する練習などを行うのですが、いかに筋肉質のスポーツマンと言えども結構キツいものです。
彼の積極性に呼応し、私も負荷の強いトレーニングを色々と提案しました。
すなお先生って、なにげにスパルタですね💦
苦笑しながらも、Sさんは私が提示したリハビリメニューを頑張ってこなしていたものです。
Sさんは、偶然にも私と同い年。
同年代として互いに共感する部分も多かったのですが、患者さんとリハビリ担当者という関係上、なあなあになることはありませんでした。
PTが対象者から「先生」と呼称されることについては賛否両論あるようですが、Sさんは私に敬意を払って下さっていたのだと思います。
もちろん私も、Sさんにはきちんと敬語で対応していました。
2.過酷な歩行練習
Sさんは、自分の脚で歩くということをあきらめていませんでした。
専用の長下肢装具を作製し、両腕で支えながら平行棒の中を歩きます。
さらに松葉杖で歩く練習も行いました。これは非常に過酷なものでした。
※画像引用元:川村義肢株式会社
率直に言って、第10胸髄レベルの完全麻痺の場合、実用的な歩行(移動手段として日常的に使う)の獲得は現代の医学では困難とされています。
近年ではiPS細胞を応用した治療の研究も進められていますが、未だ実用化には至っていません。
彼は頭脳明晰であり、脊髄損傷の予後(最終的にどこまで回復するか)についても十分理解していましたが、自分で納得のいくまでは、投げ出したくなかったのだと思います。
3.転院
リハビリ開始から数ヶ月経過した頃、Sさんは転院を余儀なくされます。
当時私が勤めていたその病院では、リハビリを長期的かつ集中的に行う『回復期リハビリテーション病棟』はまだ開設していませんでした。
一般病棟への入院は一定期間を超えると診療報酬が大幅に下がるため、病院側にとっては経営上都合が悪いのです。
患者さんにとっては、「追い出される」ように感じることも多々あるでしょう。
Sさんも渋々承知したという感じでしたが、転院先は脊髄損傷のリハビリテーションで定評のある病院だったので、私としては不安視してはいませんでした。
すなお先生、僕の装具と松葉杖、ここで預かっておいて頂けませんか?
……持って行かないと、向こうで困るんじゃないですか?
いいんです。退院したら、また取りにきますから。
ご迷惑でしょうか?
迷惑ということはありませんよ。
お預かりしても良いか、科長に聞いておきますね。
そして彼は、装具と松葉杖を置いて転院して行きました。
4.安堵と哀愁
しばらくして、私はSさんの転院先である「B病院」へ面会に行きました。
すでに患者さんと担当PTの関係では無くなっていたのですが、「元担当患者さん」とプライベートでお付き合いするのは、本来あまり好ましいものではありません。
ですが、私はSさんに関してはこの「禁」を破りました。
久しぶりに再会したSさんは、満面の笑みで迎えて下さいました。
すでに彼は「自分の脚で歩く」ことに一定の見切りをつけていたようです。
両腕で身体を持ち上げる「プッシュアップ」の技術を、得意げに披露してくれました。
ほらね。「プッシュアップ」とひとくちに言っても、色んな種類があるんですよ。
肩甲骨の使い方で身体の動きが変わるんです。
さすがB病院仕込み…。
脊髄損傷の理学療法について経験値の少ない私は、ちょっと安心しました。
実は、彼から「転院を迫られているが、どこが評判が良いだろうか」と尋ねられ、最初にB病院の情報を提供したのは私だったからです。
Sさんは入院しながらも、自分で起業した解体業をきちんと続けており、その事業内容なども以前から話して下さっていました。
彼には奥さんと1人の子供がいたのですが、バイク事故の前にはすでに別居中と聞いていました。
この入院中、嫁には色々世話になりましてね…。
それでまた一緒に暮らすことになったんです。
穏やかに話す彼の表情からは、安堵と、ほんの少しの哀愁が漂っているように思えました。
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5.残酷な神様
やがてSさんはB病院を退院しましたが、その後も私たちはプライベートで親交を続けました。
Sさんは、身体障害者の等級を取得。
両手でアクセル・ブレーキ操作ができるように改造した自慢のベンツで、私の前に現れました。
当時私が編集委員をしていた職場の広報誌に、『リハビリテーションとは?』といったテーマで記事を書く機会がありました。
車に乗り込む場面を撮影し、広報誌に掲載したいと依頼すると、彼は快く承諾して下さいました。
車椅子から運転席へ移乗し、さらに車椅子を畳んで後部座席に積み込むのも、すべて自身で行います。
それは見事な体さばきでした。
ある時、車を走らせながら彼は静かに話し始めました。
すなお先生。僕はね、阪神・淡路大震災の時、すぐに現地に入ったんです。
阪神・淡路大震災は1995年。この時2004年なので、9年が経過していました。
私自身は震災当時、兵庫県の阪神地区に在住しており、まさに被災者のひとりでした。
当時の光景がまざまざと蘇ってきます。
僕はもうその頃、解体屋でしたからね。
がれきを安全に撤去するのはお手のもんです。消防隊とか自衛隊よりもね。
これでも僕、ちょっとは震災の復興に貢献したんですよ。
来る日も来る日も、被災地でずっとボランティアやってたんです。
そうか…そうだったんですね。
でもね…もし神様がいるとしたら…あれだけ社会のために尽くした僕に、こんな仕打ちってアリですかね。
僕はね、別に見返りを求めてやってたわけじゃないですよ。
だけど、なんか割り切れないんです。
もっとバチ当たっていい人なんて、他にもいるんじゃないですか?
僕って、考えが卑しいんですかねぇ…。
…………。
フロントガラスの向こうには、果てしない空が広がっていました。
私は胸が詰まったようになり、返す言葉が見つかりませんでした。
6.同じ空を見上げて
スポーツ万能だった彼に、パラリンピックを目指しては…などと薦めたこともありますが、あまり興味が無かったようです。
と言うよりも、事業経営に手一杯だったのかも知れません。
すなお先生。預かって頂いてる装具と松葉杖、もう使わないと思うんです。
もし何かの役に立つなら寄付します。リハビリ科で使って下さい。
装具は基本オーダーメイドですが、練習用として他の患者さんに使えないこともありません。
実習生の教材としても活用できるので、科長と相談した上で有難く頂戴することにしました。
お互い自動車が好きだったこともあり、ドライブという共通の趣味を通じての親交がしばらく続きました。
しかし、Sさんの方は事業がますます忙しく、私もやがて管理職となって日々のゴタゴタに拘泥していく中で徐々に疎遠になり、最近では連絡を取り合ってはいません。
今も同じ空を見上げながら、自慢の外車で颯爽と走っているのだろうな…。
同世代としての共感とともに、脊髄損傷という重度の障害を乗り越えた青年実業家・Sさんのことを思い起こす今日この頃です。
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