予備校へ通い始めるものの、やはり英語の講義はサッパリついていくことができません。
もとより一浪したからといって、かならず大学へ入れる保証などありません。
働くこともできず、進学もままならない、先の見えない日々…。
おおげさな言い方ですが、私は「社会から抹殺される恐怖」をこのとき感じていました。
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1.愚直に這い上がる
追いつめられた私は、ついに、やっと、重い腰を上げました。
中学1年レベルの英語の問題集を購入し、4回、5回と繰り返し解いていきます。
院長先生が言っていたとおり、最初は中1レベルの問題でさえも正答率は60%ほどでした。
やはり基礎的な文法がおろそかになっていたのです。
「こんな事やってて、本当に大学へ行けるのか…?」
怖ろしく不安になりましたが、もう院長先生の言葉を信じる以外にありません。
暗示にかかったように、中学英語の問題集そればっかり解きつづける、愚直なまでの毎日。
そして予備校へ通い始めて3ヵ月、ついに変化が訪れます。
大学受験レベルのテキストの内容が「突然」理解できるようになってきたのです。
半年も経った頃には、そこそこの私大に合格できるレベルにまで達しました。
まさに奇跡(?)です。
余談ですが、「基礎的な問題集1冊を最低5回は繰り返し、ほぼ完ぺきに解答できたらより高いレベルの問題集に取り掛かる」という院長先生直伝の勉強方法は、のちにPTの国家試験や介護支援専門員(ケアマネージャー)、日本糖尿病療養指導士の認定試験など、あらゆる局面で活用できました(万人に通用するかどうかは保証できませんが…)。
これは試験対策に限ったことではなく、「迷ったときや、ことの本質が分からなくなったときには、まず基本(原理原則)に返る」という今の私の思考プロセスにもつながっています。
2.入院しながらの大学受験
受験を3ヵ月後にひかえた頃、落ち着いていた肝機能がまた悪化します。
入院しながら予備校へ通う毎日が始まりました。
例によって、小児病棟への入院です。
夜の消灯時間は20時30分ですが、私は受験勉強のために消灯後も「院内学級」の教室を使うことを許して頂けました。
受験当日も、もちろん病院からの出発です。
医療従事者、看護学生の方々、子どもたちの応援を背に、「入院治療中に受験に臨む」という当時の状況は、今思えば何ものにも代えがたい人生経験でした。
そして、私はついに某私立大に合格しました。
主治医の先生はどちらかというと寡黙な方でしたが、合格を報告した時、珍しく
「えっ、本当か!? よかった~嬉しいよ!!」
と大喜びして下さったことを今でもはっきり覚えています。
もちろん、看護師さんや看護学生さん、院内学級の先生や子どもたちも大いに祝福して下さいました。
対照的に、院長先生と高校3年時の担任の先生は
「そう、よかったな…。これからも頑張りなさい」
と、穏やかな表情で、静かに喜んで下さいました。
私をただ信じて、見守って下さっていたのかな…そんな風に感じられました。
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3.ほんとうの教師
もうひとり、私の大学合格を我がことのように喜んで下さった先生のことを紹介します。
高校2~3年時の学年主任で初老の社会科教師、K先生です。
この先生は、筋肉が萎縮し変形した片方の脚を、一本の棒のように大きく外側へ振り回すような歩き方をしていました。
それは、子どもの頃に発症した「ポリオ」という感染症によるものでした。
K先生は、授業の合間によく子ども時代の苦労話をされていたものです。
「小学校の頃はずっと病気で苦しんだ。ろくに麻酔もかけず手術され、死ぬほど痛い思いをしたよ」
「留年して自分の妹と同じクラスになってしまい、とても恥ずかしかったね」
そういった内容を繰り返すのですが、私は先生の苦労話など鼻につくといった感じで、失礼ながら当初はまともに聴いていませんでした。
それに私は授業態度が悪く成績も底辺だったので、K先生にはいつも目をつけられ、しょっちゅう怒られていたのです。
高校2年のなかばで入院した私は、1ヶ月の休学ののち復学に至るのですが、担任の教師以外で最初に
「どうだ、体の調子は。大変だったなぁ…大丈夫か?」
そう声を掛けて下さったのも、K先生でした。
それまでの厳しい対応とはうって変わり、私が授業中にボンヤリ外を眺めていても、机に伏して寝ていても、けっして咎めることなく、逆に
「どうした、調子わるいのか? 無理はするなよ」
と、事あるごとに心配して下さいました。
現役での大学受験に失敗した時も、また高校を卒業する時にも、こう言って励まして下さったのです。
「今の苦労はあとできっと役に立つよ。まずは体を大切にしろ。そして自分のペースでいいから少しずつ勉強しなさい。かならず報われる時が来るからな」
一浪して大学に入学した後、私の4才年下の「入院仲間」が、同じ高校に入学していました。
そして彼も、余談や苦労話でよく脱線するK先生の授業を受けていました。
ある日、彼が
「K先生が、授業中にすなお君のことを話していたよ!」
そう教えてくれました。
高2の時に肝機能障害で入院したこと。落第寸前で何とか卒業し、その後も入院しながら予備校へ通い、〇〇大学に合格を果たしたこと…。
「病気で苦労しても、地道に努力すれば大学へ行けるんだ。君たちも、彼を手本にして頑張れ…」
もちろん名前までは出さなかったようですが、私のことを話題にしたのは明らかでした。
私の話を授業のなかで教訓のように出して下さったのは嬉しくもあり、また恥ずかしい限りです。
そして、教え子に対し「鼻につく苦労話」を繰り返し語ることの意味を、私はやっと理解したのでした。
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