私がPT歴9年目の頃の話です。
入院患者・Hさんのリハビリオーダーを受け、理学療法士(PT)の私と、作業療法士(OT)のF主任が担当になりました。
HさんはT字杖で歩行していましたが、ふらつきがあるため、病棟内における移動の安全確保について検討する必要がありました。
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1.対象者の情報
まずは、対象者であるHさんの概要についてご説明します。
◆患者名:Hさん(60歳代 男性)
◆疾患名:脳腫瘍・左片麻痺(かたまひ:左半身の運動障害)
◆動作能力:屋内T字杖歩行・近接監視レベル(近距離での見守りが必要)
Hさんは他の急性期医療機関「B病院」で悪性の脳腫瘍を摘出する手術を受けた後、リハビリ目的で私の勤める病院に転院してきました。
動作レベルとしては、平坦な所ならT字杖で歩けるものの不安定であり、単独で歩くと転倒の危険がある状況でした。
そのため、トイレへ行く時などはナースコールを押して頂き、看護師の付き添いで杖歩行するか、もしくは車いすで移動するという取り決めになっており、Hさんもそれに同意していました。
ところが、Hさんは単独でふらりと歩いて廊下に出てくることが、たびたびありました。
Hさんに対しては認知症などを含めた「高次脳機能障害」の程度を把握するための各種検査を行なっていました。
その結果、認知・判断能力は年齢相応であり、大きな問題は見つかりませんでした。
しかし、机上の検査では問題が無いように見えても、日常生活の中で認知・判断力の低下が顕在化するといった事はよくあるものです。
あるいは、自身の歩行能力を認識しつつも「自分の意思で歩きたい時に歩く」といった欲求に勝てなかったのかも知れません。
また、「その都度ナースコールを押して看護師に来てもらう」ことに対し申し訳なく思い、遠慮する患者さんも多いものであり、Hさんもそう感じていた可能性はあります。
2.離床センサーの検討
そこで、関係する医療従事者が集まり、Hさんの安全な移動手段について検討することとなりました。
カンファレンスの出席者は、以下の顔ぶれでした。
◆主治医(リハビリテーション専任医)
◆病棟看護師長
◆リーダー看護師
◆担当PT(すなお)
◆担当OT(F主任)
あらゆる方向性が議論されましたが、全スタッフが最初に想起したのは「離床センサー」の設置でした。
離床センサーには様々な製品がありますが、その病院で使用していたのは、床に敷いたマットを踏むと自動的にナースコールが鳴る「センサーマット」タイプでした。
しかし結果として、センサーマット案は却下されました(後々、この案は復活するのですが…)。
コールが鳴った頃にはHさんはすでに病室から出てきていることもあるでしょうから、移動の安全性を確保する(転倒を予防する)という意味では根本的解決とは言えません。
それに、一定の判断力を有するHさんなら、意図的にセンサーマットを踏まないように離床する可能性も高いです。
3.医師による歩行器の提案
T字杖で危ないのなら、歩行器を使ってみたら?
ふと、主治医がそう発言しました。
歩行器も様々な種類のものがありますが、主治医が提案したのは以下のタイプです。
※画像引用元:アビリティーズ・グループ
このようなキャスター付きの歩行器(歩行車とも言います)は、Hさんのような人には適応できない場合が多いです。
片麻痺では、歩行器を対称的に扱うことが難しいのが一般的です。
ベッドサイドやトイレなど、狭い場所ではさらに取り回しが困難なものです。
また、車輪の転がりも手伝って、麻痺している左側へ一気に体勢を崩すこともあり得ます。
私は歩行器の使用に少し消極的でしたが、OTのF主任は、私以上に強く反対しました。
少し横道に逸れますが、PTとOTの業務範囲について少し整理しておきます。
過去記事でも述べましたが、法的には
PT:基本的動作能力の回復を図る
OT:応用的動作能力又は社会的適応能力の回復を図る
ということになっています。
「基本的動作」とは、寝返り・起き上がり・起立・歩行などの要素的な動作群を指します。
「応用的動作」とは、日常生活上の目的をもった動作群を指し、食事・排せつ・入浴などが挙げられます。
実際のところ、基本的動作と応用的動作はオーバーラップする部分が多いため、それらをPTとOTで明確に切り分けてアプローチするのはあまり適切ではありませんし、患者さんのためにもなりません。
なので、分担できる領域については適宜分担しつつも、必要に応じて協同して行うというのが現実的と言えるでしょう。
「歩行の安全性を考慮するのはPTの役目」と割り切っていたのか、F主任の発言は終始控え目でしたが、歩行器の提案に対しては明確に反対しました。
理由としては安全性云々という問題ではなく、「非対称的な歩き方を助長することで、片麻痺の回復に悪影響を与える」ということのようでした。
中枢神経障害としての片麻痺には、「力が入りにくい」といった量的要素と、「思い通りにコントロールできない」という質的要素が混在しています。
そのため、単に「ガンガン運動して筋肉を付ければ良い」というわけではなく、「上手な身体の使い方」を同時に学ぶ必要があります。
詳しい解説はここでは割愛しますが、過剰な努力をしたり、非対称的な動作パターンを繰り返すのは、結果として「片麻痺の質的な回復」を阻害するという側面もあることは確かです。
こういう考え方を重視するPT・OTは珍しくありませんが、医師や看護師など他の医療従事者にはあまり馴染みのない知識ではないでしょうか。
ともかく、カンファレンスの議論は主治医を筆頭に「とりあえず歩行器の安全性を評価してみても良いのではないか」という方向に傾きつつありました。
私はF主任の考えには一理あると思いましたし、「片麻痺にキャスター歩行器」という組み合わせにもやや懐疑的ではありました。
その一方、「非対称的な歩き方だろうが何だろうが、安全であればイイんじゃないの?」という考え方も、いかにも臨床医らしく、極めて合理的です。
またそういう柔軟な発想は、医療従事者にとって必要であるとも思います。
最終的には、PTサイドでHさんの歩行器練習を行なって安全性をアセスメントし、評価結果を主治医と病棟師長へ報告することとなりました。
F主任は、最後まで納得していない感じでしたが…。
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4.先入観を持たないこと
結論としては、キャスター歩行器での病棟内歩行を認める運びとなりました。
同時に、ナースステーションから目視できる病室に移って頂くようにしました。
やはり見守りの目はあった方が良いからです。
Hさんもそれに同意して下さいました。
左半身の動きに問題があることから、やはりHさんの歩行器操作は非対称的で、時々左足をキャスターにぶつけたり、ふらついたりすることもありました。
それでも、杖歩行でフラフラと廊下へ出てくるよりはまだマシです。
私が予測していたよりは、何とか使えるかな…といった感じでした。
不安定ながらも歩く能力を有する人の自由意思を食い止めるのは、なかなか難しいものです。
「好きな時に、行きたい場所へ、自分の脚で歩いて行く」ということは、ヒトの基本的欲求と言っても過言ではないかも知れません。
看護師をはじめ病棟スタッフの方々は、転倒事故を少しでも減らすために苦労されていることと思います。
介護施設でも同様でしょう。
こういう場合、100%安全というベストを期待するのではなく、ベターな方向性を探ることも求められるのが医療・介護現場のリアルな現実です。
私はこの時、「片麻痺にキャスター歩行器なんて、という先入観を持つのは、PTとしては未熟だ。何でも試してみなきゃ分からないものだな…」と改めて反省した次第です。
Hさんの安全性確保の件は、他職種間の連携により一定の方向性を見いだすことができました。
ところが、それ以降PT・OT間の方針の違いが浮き彫りになっていきます…。
<第2話につづく>
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