今回は、私が数年前まで在籍していた病院で担当していた業務についてのお話です。
その病院には『糖尿病サポートチーム』という組織がありました。
糖尿病専門医をリーダーとして、看護師・管理栄養士・理学療法士(PT)が数名ずつ配属されており、糖尿病患者さんに対し療養上のさまざまな指導を行っていました。
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1.糖尿病通信の廃止案、にわかに浮上
糖尿病サポートチームの主な業務は、日常の診療行為のほか、
◆糖尿病教室:月1回開催
◆糖尿病通信:年4回発行
◆ウォーキングイベント:年1~2回
◆お料理教室:年1回
といったものが中心でした。
ある日、サポートチームの運営会議の中で、チームリーダーのN医師がおもむろに提案しました。
糖尿病通信さぁ…もう発行するの止めようか?
「糖尿病通信」とは文字通り患者さん向けの通信誌であり、医師・看護師・管理栄養士・PTがそれぞれの立場から、療養上必要なノウハウを分かりやすくまとめた冊子です。
例えばPTであれば、糖尿病の運動療法(筋トレやウォーキング)についての知識や方法論などを記事にします。
原稿の内容チェックはN医師、原稿データの取りまとめや編集・製本作業は医療事務の職員が行っていました。
プロの印刷業者に任せるわけではないので、まさに「手作り感」満載です。
出来上がった冊子は外来の待合室と病棟のエレベーターホールに設置され、患者さんが自由に手に取り、お持ち帰り頂けるようにしていました。
が、実際のところお持ち帰りになる患者さんはほとんどおらず、有名無実化していたというのが現実です。
病院職員でさえも、糖尿病通信の存在を「知らない」という人が数多くいるという有様でした。
そんな中、私はリハビリテーション科の科長として、普段は部下に任せていたサポートチームの会議にたまたま同席することとなったのですが、そこで唐突にN医師の発言が飛び出したのです。
2.すなお、編集長になる
N医師は御年70歳代。日々の多忙な診療にも少しお疲れのご様子でした。
通常業務に加え、3ヶ月ごとに原稿を作成するのはなかなかの負担だったでしょう。確かに年4回は多過ぎるように思えます。
だってね、どうせ患者さん誰も読んでないでしょ? 意味ないよ、こんなの。
「完全廃止」との提案を受け、各部署の反応は様々でしたが、概ねN医師の意向に賛同する形で話し合いは進みました。
みんな多忙ですし、正直言って診療と直接関係の無い仕事は少ない方が助かります。
ラクな方向へ逃げるのは人の常というものです。
私はこの会議に、部下の若手PT1名と参加していましたが、彼女は少し困惑しながらその成り行きを黙って見守っていました。
「仕事が減るのは嬉しいけどねぇ…」という感じでしょうか。
ちなみに私はこういう時にあまり空気を読まない、少し厄介なヒトでした😅
N先生、いきなり止めるのもどうでしょうか…。
業務の負担が大きいなら、発行頻度を減らして続けませんか?
原稿の取りまとめや編集は、私がやります。皆さんは素の原稿を渡して頂くだけで構いませんから。
う~む……。
N医師も他部署のスタッフも、私の提案に表情を曇らせましたが、最終的には年4回だった発行頻度を3回(のちに2回)に減らして継続するということで合意しました。
編集は私が、印刷・製本は管理栄養士の方々が引き受けることとなり、医療事務の職員は胸をなで下ろしました。
以降、その病院を退職するまでの5年間、私は実質的な「編集長」として糖尿病通信を発行し続けていました。
編集作業がいかに大変だったか…その詳細は省きますが、まさに筆舌に尽くし難いものでした。
3.広報誌として脚光を浴びる(?)
リハビリ科・栄養科・薬剤科・臨床検査科・放射線科の5部署は、「診療支援部」という部門に属していました。
すなわち、その部長が私の上司ということになります。
「編集長」を引き受けたことについては私のアドリブと独断であり、部長の事前承諾を得ていたわけではありません。
のちに「なぜ貴方がそんな面倒な役割を?」と、部長から尋ねられことがありました(咎められたというわけではありませんが…)。
糖尿病療養指導はもちろん患者さんのためにありますが、管理職としては職場教育という面も考慮してチームに参加させています。
若手の部下が見ている前で消極的な考えに与するのは、教育的な観点からも好ましくないと思いました。
私は私なりに、信念を持ってそう答えました。
糖尿病通信は、冊子の設置場所を増やしたり、目にとまりやすくなるように表紙のデザインを工夫するなど試行錯誤を繰り返し、徐々にではありますが発行部数を伸ばしていきました。
そして、私が編集長に就任してから数年後。
思いがけず、某大学病院から糖尿病専門医が病院長として就任することとなり、地域の中で「糖尿病専門病院」としての役割を担うようになります。
サポートチームは一挙に大所帯へと変貌し、その活動は病院の中核に。
糖尿病通信には執筆者として薬剤師・臨床検査技師なども加わり、さらにボリュームup。
また病院の広報誌としても位置づけられ、周辺地域の連携病院にも配布されるようになり、部数は一気に増加しました。
病院長の決裁で予算を付けてもらえたため、印刷・製本は専門業者に依頼。見た目もグンと良くなりましたが、編集作業は最後まで私の役目でした。
糖尿病通信は、この病院にとって不可欠な存在になりつつある…私はそう信じ、プライドを持って取り組んでいました。
ところが、「リハビリ科の科長でありながら広報誌の編集を行っている」ことについては、経営上層部の一部の方々から冷ややかな目で見られるようにもなりました。
PTとしての本来の仕事をしっかりやって、もっと稼げ!
ということのようでした。
それが直接の理由というわけでも無いのですが、私は諸事情により、間もなくその病院を退職することとなりました。
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4.余談 … 真面目なブログ運営者の方々へ
患者さんが手に取って読んで下さらないのなら、読んで頂けるように努力するのが医療従事者の務めだと思います。
それに「どうせ読んでくれないなら、発行しても仕方が無い」という考えは、「どうせ人間は死ぬのだから、生きていても仕方が無い」と言っているのと論理的には同じではないでしょうか。
私がそう言うと、部長はただ苦笑していました…😅
ちょっと話が逸れるようですが、今回この記事を綴るきっかけになったのは、私を含めブロガーの方々の多くが「ブログを書き続けることの意味」を自問自答し、時に苦悩しているということからです。
「1年間毎日投稿」「500記事連続投稿」など、厳しい掟(?)を自身に課している努力家の方々ほど、理想と現実とのギャップ(思うようにアクセス数が伸びない、収益が得られない等)に苦しむ傾向にあるような気がします。
私自身は当初週3~4本から、やがて週2本になり、今は週1本という体たらく。
毎日投稿されている強者ブロガーの方々とは比べるべくもありませんが、「できれば医療従事者として人の役に立つ記事が書きたい」という気持ちが、時として余分なプレッシャーになりがちです。
己が作ったルールで己自身を縛ってしまう。
自分で言うのもおかしいのですが、マジメ人間に陥りやすい傾向です。
そして、事あるごとに「◯◯をすることの意味」に思い悩んでしまうのです。
ブログを書くことの意味については、つたない過去記事の中で、ダークの言葉を借りてつらつらと綴っています。
もしよければご一読下さい。
賛否両論あると思いますが、「行いの意味」というのは、人間が脳の中で作り出す幻想のようなものだと私は考えています。
名将・野村克也氏が「たかが野球、されど野球」と言ったように、物事には大した意味など無いのだけれど、どうでもよい事にこだわるのが人間の性(さが)というものです。
ブログは仕事としての糖尿病通信とは違い、「読者さまに読んで頂ける(すなわち、アクセス数がupする)よう最大限努力する」かどうかは運営者次第ですから、義務というわけではありません。
一方、「意味」があるのかどうか怪しいところは、本質的に両者とも変わりはないような気がします。
それでも、
「どうせ人間は死ぬのだから、生きていても仕方が無い」
この考えが何となくおかしいな…と感じるのなら、「これは意味があるからやる」「あれは意味が無いからやらない」などと言わず、まずは謙虚に、目の前にある事に少しずつでも取り組みたいものです。
そのこと以外に、人間が苦しみから解放されるすべは無いのだろうと思います。
私は「続ける」ことは大切だと考えています。
毎日投稿できればそれに越したことはないでしょうが、週1回、月1回でも、続けないよりはずっとイイ。
偉そうな言い方ですが、それが私の人生経験から導き出された教訓だったりします。
「意味を創出できるかどうかは自分の努力次第だ!」と片意地を張ることもありません。
漫然とでも続けることによって、「意味」や「価値」が不意に目の前に現れることもあるでしょう。
糖尿病通信が、図らずも脚光を浴びたように。
私はそう信じて、日々ダラダラとブログライフを送っています…😅
長文でまことに申し訳ございませんでした。
最後までご覧下さいましてありがとうございました m(_ _)m
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