私が慢性B型肝炎で初めて入院したのは、1987年の10月29日のことです。
当時高校2年。早いもので、あれから33年が経ちました。
毎年10月下旬が来ると、入院当初母が毎日のように病室に持ってきた、ひとくちの水のことを思い出します。
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1.聖水で病気は治るのか
母は面会に訪れる時、ひとくちで飲み干せるほどの水を、古びたタッパーのなかに入れて持って来ました。
それは、とある宗教(読者の皆さまもよくご存じの団体です)の儀式で清めを受けたとされる「聖水(?)」だったようです。
何? この水…
神さんに清めてもらった水やから、飲んだら病気なんかすぐ治るわ。ほら…
私は、プラスチック臭の漂うその生ぬるい水を、一気に飲み干しました。
入院中、私はインターフェロンという強い薬を使った治療を受けていました。
水で病気が治るなら、こんなに苦労しないよ。
神も仏も、助けてはくれない。
最後に頼れるのは、自分だけだ…。
副作用の高熱にうなされながらも、私の頭の中は妙に醒めていました。
私の身体の異変は中学生ぐらいの頃から起こっていましたが、母はその訴えをまともに取り合おうとしませんでした。
最終的に私は親に相談せず受診し、B型肝炎であることが発覚しました。高校2年の時です。
このことを、のちに母は深く悔いていました。
某宗教団体は、そんな母の心の傷と信仰心につけ込み、勧誘したようです。
やがて母は心を病み、10年以上の闘病生活を送りますが、最後には睡眠薬を大量に摂取し亡くなりました。59歳でした。
2.仏神は貴し、仏神をたのまず
高校卒業後、私は入院治療を続けながら予備校へ通い、一浪で大学に合格しました。
悪戦苦闘の末に人生の山場を突破したその瞬間、
「天は自ら助くる者を助く」
ふと、この言葉が脳裏をよぎりました。
しかし、そもそも「天」とは何なのか。神様、仏様、それとも…?
自助努力をする人に対して、神様は必ず助けてくれるということ…?
大学生の頃、私は剣豪・宮本武蔵の言葉に出会いました。
武蔵が亡くなる7日前に記したという『独行道』のなかの一節です。
「仏神(ぶっしん)は貴(とうと)し、仏神をたのまず」
決死の闘いを前に、武蔵はたまたま通りかかった神社で必勝祈願をしようと立ち止まりますが、途中でやめます。
神仏に頼ろうとする己の弱さに気づき、自分を戒めたのです。
神や仏は尊い存在として敬うものであるが、頼りにはしない。
死地を乗り越え、剣の道を極めた武蔵。
彼の記した書物や数々のエピソードからは、徹底した合理主義者だったことが窺えます。
その一方、「仏神は貴し」の言葉から察するに、完全なる無神論者でもなかったようです。
武蔵の言葉に感銘を受けつつも、神仏を尊ぶとはどういうことなのか、そもそも神とは一体何なのか…その後も私はずっと考え続けていました。
3.人生は『踏み絵』の連続
その後さまざまな経験を重ねていくなかで、私はある考えに至りました。
神とは、自分の心の中にある主観的な存在ではないか?
これは裏を返せば、「客観的な(誰の目にも認識できる)神など存在しない」すなわち、無神論的な思想を含むのかも知れませんが、まだ私の中ではハッキリと定まっていません。
少なくとも「主観的な神」は、天地を創造した全知全能の存在などではないし、必ずしも人の姿をしているわけでもないと思われます。
では、いったい何なのか?
社会人になってしばらくの後、私は遠藤周作氏の歴史小説『沈黙』を初めて読みました。
※以下、ネタバレ注意です。
時は江戸時代初期。キリシタン弾圧の中、ポルトガル人の司祭ロドリゴは日本に潜入します。
幕府に処刑され殉教する信者たち。過酷な状況下でロドリゴは神の言葉と奇跡の到来を待ちますが、当の神は沈黙するのみ。
捕らえられたロドリゴはあくまでも信仰を通そうとしますが、拷問を受けている日本人信者を救うために棄教するか、信仰を守って信者もろとも殉教するかという究極の選択を迫られます。
この時、踏み絵のなかのイエスが「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と語りかけてきました。
そしてロドリゴは、ついに踏み絵に足を掛けるのです。
この結末には、読み手によりさまざまな見方があるでしょう。
私の解釈では、最後のイエスの声は、司祭ロドリゴ自身の無意識の中に存在する主観的な神の言葉だったのではないかと思います。
これを現代の社会生活における究極の場面に置き換えると、「主観的な神」とは、それぞれの人間が持っている「信念」のようなものと言えるのではないでしょうか。
例えば、私は医療従事者の信念として、
医療者は病気やケガで苦しむ人のために存在する。
医療機関が収益を上げたり、医療者が給料をもらったりするのは、それ自体が目的ではなく、医療を通じて社会に貢献するための一手段でしかない。
ゆえに、医療機関および医療者は金儲けや自己保身を第一に考えてはならない。
このような考えを持っています。
けれども、医療施設という閉鎖的組織の中では、経営者の判断や集団の論理で「決して患者さんのためにならない行い」に半強制的に加担させられる場面もあります。
そういう時、今までの医療者人生で私はどう対応したでしょうか。
あくまでも踏み絵を拒否してその職場を去ったこともあれば、形式的に踏んでおいて心の中では舌を出していたこともあったでしょう。
あるいは、自身の信念の弱さに負けて、惰性にまかせて踏んでしまったこともあります。
このようなことは医療従事者に限らず、他の職種の方々でも同様ではないでしょうか。
私たちは皆、実生活のなかで日々踏み絵を突きつけられ、葛藤しながら自身の信念と闘っているのだと思います。
そもそも信念とか正義といったものは、個人個人あるいは国によっても価値観が異なりますし、また時代によっても変わってきます。
ならば信念など持たぬ方が苦しまずに済むのかも知れませんが、そういうわけにもいきません。
人が複雑な社会の中で自分を見失うことなく行動するためには、自身にとって大切な「原理原則」を曲げないことが必要な場面もあるからです。
なかなか人生ままならないものです。
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4.さいごに
色々と書き散らかしてしまいましたが、神が実在しているか概念的なものなのかが明確でないため、結論づけるのは難しいですね。
あえて言えば、現時点での「神」に対する私の認識をまとめると以下のようなところでしょうか。
◆神は一方的に頼る存在ではなく、苦しい時に必ず助けてくれるわけでもない。
◆神は自分の心の中に存在するものであり、それは信念と言い換えてもよい。
◆信念は大事だが絶対的なものではないので、他者に押しつけてはいけない。
◆信念は相対的なものであり、社会の中で衝突することもある。
◆信念は自分や他者を犠牲にすることもあるため、こだわり過ぎてはならない。
これから先の人生で、私の考えはまだまだ変わってゆくかも知れません。
誤解の無いように最後に申し上げておきますが、私は神仏を信仰する既存の宗教の教えを否定するものではありません。
こんな私でも、超自然的な「何か」の存在を、ふと感じることがまれにあります。
そういう時、私は
「もし神様がいるとしたら、七転八倒しもがき苦しむ私をどうか見ていて下さい。助けてくれとは言いません。こんなちっぽけな私にどれだけのことができるか、その姿をただ見ていて下さったら、それで十分です」
そんな風に語りかけるようにしています。
今のところ返答はありませんが…😅
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