2008年1月26日。
私の愛犬・プルートが旅立った日です。
人であれ犬であれ、死別は人生の中でもっとも辛い出来事ですが、忘れて(or 忘れられて)しまうことは、それ以上に悲しいものです。
あれから13年。
心の整理をつけるためにも、今回記事にしようと思い立ちました。
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1.出会い
プルートを私の実家で飼い始めたのは、1997年6月の中旬。
産まれてから1ヶ月半くらいだったと記憶しています。
母犬と過ごす最初の2~3ヶ月は、社会性を育んだり、体力・免疫力を身につけたりする意味でも大切とされているので、引き渡し時期としては早過ぎたと言えます。
その経緯は今となっては不明ですが、もともと狩猟を趣味としていた私の父が「運動不足の解消に…」と言って、ブリーダーをしていた親戚から譲り受けたものでした。
犬種は、鳥猟犬として知られる『イングリッシュ・セッター』です。
名前については、父は特にこだわりは無い様子だったので、私が命名しました。
プルート(Pluto)といえばディズニーのキャラクターを思い浮かべる方も多いと思いますが、関係ありません😅
ドイツのノーベル文学賞作家、ギュンター・グラス氏の小説『犬の年』に出てくるシェパード犬の名前から頂いたものです。
2.厄介事
私は犬は好きだったものの、飼うことにはあまり賛成できませんでした。
当時の私はPT養成校の最終学年で、臨床実習の真っ只中。
心身ともに厳しい毎日でした。
自身の運動不足解消を飼う理由にしていた父ですが、途中で飼育放棄するのは目に見えていました。
私は、大事な臨床実習の最中に余計な厄介事を背負いたくなかったのです。
予想通り、父は犬を連れて狩猟に行くことは一度もなく、日々の散歩もいい加減なものでした。
猟犬の健康維持のためには、相当な運動量が求められます。
朝晩の散歩はもちろんのこと、休日は車にのせて兵庫県の山奥や河川(私の実家は兵庫県尼崎市です)に連れて行くなど、ほとんど私(もしくは妹)の役目になってしまいました。
※ちなみにイラストは妹の作品です。
当時はドッグランなどの施設も現在より遙かに少なかったので、運動させる場所を確保するのも大変でしたね…。
3.元気だったころ
2000年2月、私は結婚を機に実家を出ました。
それでもプルートのことが心配だった私は、実家のすぐ近くのアパートに住み、朝晩の散歩や休日の運動のために毎日通い続けました。
妻も実家の妹も、快く協力してくれました。
ボール遊びや川遊びが大好きで、元気いっぱいだった頃の写真です。
この時期のボール投げが原因で、私はのちに肩を壊してしまいました💦
それも今となっては楽しい思い出です。
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4.死線を越えて
2002年頃のことです。
5歳になったプルートはある日、いかにも脚の関節を痛そうにしてヒョコヒョコと歩くようになりました。
さらには筋肉が急激に痩せ細り、高熱を出し、日に日に弱っていきます。
信頼できる獣医を医療従事者の知人から紹介して頂き、受診するも原因は不明。
炎症を抑える薬を投与して、様子をみるしかありませんでした。
今考えると、おそらくダニによる感染症であったと推察されます。
山中や河川などで遊ばせた後、きちんとケアをしなかった私が悪かったのだと思います。
一時は水も飲めないほど衰弱し、もうダメかと思われましたが、プルートは奇跡的に命を取り留めました。
痩せていてヒョコヒョコ歩くのは相変わらずでしたが、それでも何とか散歩に行けるほどには回復したのです。
2006年、私は大阪府内で一戸建てを構え、プルートを実家から引き取りましたが、これは私の悲願でした。
小さいながらも庭付きの家を選んだのは、彼に少しでも心地よい環境を与えてやりたいという思いがあったからです。
母犬から引き離される時期が早過ぎたためか、情緒不安定な面もありましたが、前半生は基本的に元気な子でした。
全速力で山野を駆け回っていた若い頃も好きでしたが、病弱になった後半生のプルートは、私にとって切なくも愛しい存在になっていました。
人生の友であり、弟のような…。
けれども、2008年1月、ついに別れの時が来ます。
5.胸の中で
2007年12月、私はそれまで勤めていた病院を退職しました。
翌年3月に次の職場へ就職するまでの数ヶ月は、妻の母親(独り暮らし。認知症が進み、たびたび転倒していた)と同居するための段取りを整えるとともに、プルートと久々にゆったりした日々を共有する充電期間と考えていました。
ところが、1月に入って彼は急激に衰弱します。
この頃にはすでに全身を腫瘍に冒され、腎機能も悪化していたのです。
かかりつけの獣医からは、「入院させて持続点滴すれば延命はできるが、それでもあと2週間ぐらい」との宣告。私は自宅療養を望みました。
1/26の昼下がり、私はプルートを妻に託して小一時間ほど外出しました。
腫瘍の痛みに苦しむ彼の姿が、いたたまれなかったからです。
私が帰宅すると同時に、プルートは突然、耳をつんざくような声で鳴き叫びました。
私は思わず「どうした、大丈夫か? よしよし…」と抱き寄せました。
彼は幾度か「キュ~ン」とうめき声を上げた後、頭をガクッと垂れ、やがて息絶えました。
「貴方が帰ってくるのを待っててくれたんよ。最期は貴方の胸に抱かれたくて…」
妻の言葉に、私は気が狂いそうなくらい号泣しました。
6.ただ愛おしい存在
翌1/27の昼前、妹の車に亡骸をのせて近隣の動物霊園へ行き、最後の別れをしました。
私はずっと泣き続けていました。
そしてその日の夕方、義母を自宅に招きました。
1/27から義母との同居が始まることは、1ヶ月以上前から決まっていたものです。
義母は犬があまり好きではありませんでした。
私が休業中だったことも含め、プルートは自分の身の処し方やその時期を察し、タイミングを計っていたような気がします。
それが私に対する彼の最後の友情だったのかも知れない…そう思うと、涙がとめどなくこぼれてくるのでした。
私の母は2004年、父は2013年に、それぞれ59歳・69歳で亡くなりました。
両親を悼んで泣いたのは葬儀の日が最後であり、以降は一滴の涙も流していません。
親を軽んじているわけではありませんが、肉親に対しては「悲しい」だけでは済まされない、愛憎さまざまな感情が交錯するからでしょう。
一方、愛犬とは文字通り、ただただ愛おしい存在。
プルートが亡くなってから数ヶ月間、毎日毎日、思い出しては泣き崩れていました。
今でも、命日が来るたびに涙がこみ上げてきます。
彼が亡くなって以降、淋しさを紛らわせるために金魚を飼育していた時期もありましたが、今は生き物を飼うことを好まなくなりました。
いわば、ずっと「ペットロス」が続いている状態です。
7.また会おうね
プルートの遺骨は、今も私のそばにあります。
私が火葬されたら、一緒に散骨してほしい。妹と妻には、そう伝えています。
死は時として怖く感じるものですが、プルートが向こうで待ってくれていると思うと、不思議と心が安らぎます。
11年に満たない短い命でしたが、彼は今でも私の心の中に生き続けています。
ありがとう、プルート。また会おうね…。
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