このシリーズでは、日本を代表する国技・大相撲がもつさまざまな魅力についてお伝えしていきます。
相撲における「立合い」は、格闘技としての独自性とその魅力を語る上でとくに重要なものです。
まずは、その一連の所作を改めて確認するとともに、現在の大相撲における立合いの問題点にも切り込んでいけたらと考えています。
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1.大相撲における「立合い」の特異性
例えば陸上競技の100m走であれば、号砲を合図に競技がスタートします。
すなわち、競技の開始に際して第三者の意志(強制)が介在しているわけです。
走り幅跳び・高跳びなどは、助走の開始は(制限時間の範囲で)競技者自身の意志に委ねられます。
助走開始前に呼吸を整える様子は観ていて緊迫感がありますが、あくまでもその選手個人のタイミングの問題であり、他者と呼吸を合わせるという類いのものではありません。
ゴングの合図で開始されるボクシングなど、たいていの格闘技も審判・レフェリー等の介入により競技が始まるというスタイルを取っています。
その他対戦形式のスポーツ、例えばテニスや卓球であれば、審判の合図の後、相手のサーブをきっかけとしてゲームが開始されますし、野球における投手と打者の関係も同様です。
それに対し、大相撲では
「これから闘う相手(敵)と動作を協調させ、呼吸を合わせる」
「双方の気力が充実した時に、互いに合意の上で競技が始まる」
という、対戦形式のスポーツ(格闘技)の中でも極めてまれな性質を有しています。
まさに、呼吸を合わせて立ち合うことから「立合い」と呼ぶのです。
※「ちびっ子相撲」など青少年・アマチュアレベルの相撲では、両手を仕切り線についた状態で、行司の「残った!」を合図にスタートするケースもみられますが、これは例外的な措置であり本来の立合いとは異なります。
アナウンサーで相撲評論家の、故・小坂秀二氏(1918/3/16 – 2003/4/6)もその魅力を常々語っておられましたが、「これから闘う相手と呼吸を合わせる」というのは、いかにも和の国・日本人らしい潔さと言えるでしょうし、大相撲の特異性を象徴する競技ルールではないかと思います。
しかし一方で、
「今の大相撲の立合いに、そんな魅力があるの?」
「何度も何度も立合い(仕切り)の動作を繰り返すのを観ていて、退屈する!」
そのように感じている方も少なくはないでしょう。
2.仕切り→立合いに至るまでの所作
幕内の取り組みであれば、制限時間4分の中でこの「仕切り」動作を繰り返しながら徐々に気力を高めていき、互いに動作や呼吸を合わせて最終的に「立合い」に至ります。
あくまでも制限時間内に立合いが成立すれば良いので、1回目の仕切りでも呼吸が合えば、ぶつかり合うことができます。
2回目以降の仕切りを「仕切り直し」と呼ぶのは、そのためです。
昭和初期の大横綱・双葉山は、「いつでも立てる仕切り」を常に心掛けていたといいます。
そして実際に1回目の仕切りで受けて立ち、見事に対戦相手を退けています。
千代の富士・貴乃花といった昭和~平成にかけての大横綱も、「時間前の立合い」を何度か成立させています。
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3.漫然とした仕切りの繰り返し
制限時間内で互いに気力を高め、ピリピリと神経を張りつめている様子は、観ている側もドキドキします。
なぜなら、時間前の立合いには
「いつ立つか…」
「この仕切りで立つか!?」
という緊迫感があるからです。
…ん? 今の大相撲の仕切り・立合いに、そんな緊張感はあったでしょうか???
本来、制限時間内に繰り返される仕切り動作は、互いに動作のスピードや呼吸の間合いを見極め、相手に合わせるために行われるものです。
しかし実際には相手の動きと同調させることもなく、仕切りの所作をそれぞれのペースでバラバラに、漫然と繰り返している力士たちが非常に多いです。
まるで「制限時間が来るまで立ってはいけない」かのように見えてしまいますし、そういうルールだと誤解している方々も多いことでしょう。
その結果、時間いっぱいの立合いは必然的に無理やり呼吸を合わせることとなり、「待った」の応酬が繰り返されます。
そしてさらに自分勝手で功利的な立合いにつながっていくのです。
このような「立合いの乱れ」についての詳細は、次回の記事で述べていきたいと思います。
大相撲の魅力をご紹介するはずの記事が、結果的に現在の大相撲(力士)に対する批判めいた内容になりつつありますが…大相撲をこよなく愛する者としての純粋な気持ちであることをご理解下さい (;^_^A
最後までご覧下さいましてありがとうございました🎵
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